Travis Japan への道- 0ゼロ
現在2023年10月、Travis Japan にはまるまでに自分が何を推してきたか。
これはずっと以前から、残したい、書いてみたい、と思っていた自分の推し歴。
トラジャの如恵留君が気になって、とらじゃ担さんによるブログ等でトラジャにはまったきっかけエピソード、トラジャの魅力考察、メンバーへの愛などなどトラジャファンが綴るものを覗いては、その読み応えに感動、満足して、更に応援しようという気持ちが溢れた2019年~2022年。
自分もそういうもの書いてみたいなぁと思ってはいたけれど、この10年ほどは型通りの仕事文書以外には書くことがなくなってしまって、ちゃんとした文章を書けるかどうかわからないまま時間が過ぎて2023年。記憶のあるうちにここらで書いてみる。
40年、50年に渡る推し歴なので長いかも ww
よろしかったらご覧ください~。
70年代 年末はレコード大賞、紅白が楽しみな子供だった
就学前後の私の記憶の中の大晦日は、いつも仕事で忙しい父や母が仕事納めをして夜は家族でゆっくり年越しをする日だった。
お昼までに家の商売を終えて市場に新巻き鮭を買いに行ったり、家の神棚のしめ縄を新しくするために神社に行ったり一日忙しく、それでも小さい私を一緒に連れて行ってくれたりと大人たちも笑顔で楽しい行事の思い出。
あの頃の大人は今と比べると休みも少なくて、いつも働いていたなぁという気持ち。
若くして決まりごとの多い古い家に嫁いだ母と、自分の仕事と家事だけでよい今の私とを比べると申し訳ないくらいに楽だと思う。
夜からの大晦日テレビ番組、レコード大賞での新人賞、紅白初出場などは涙を流して歌う人も多く、子供心に大変なことなんだと思った。
このころ見た印象に残っている人は尾崎紀世彦、ちあきなおみ、フィンガー5、南沙織、天地真理、麻丘めぐみ、布施明さん、他演歌に限らずベテラン歌手たちの歌に引き込まれて聴いていた。
そして新御三家は輝いていた。演歌、ブルース、シャンソンにフォーク、ロシア民謡やラテン音楽まで広く浅く、今よりも昔の子どもはいろんなジャンルの歌を聴いていたかもしれない。
自分の初めての推しができたのは小学校の3,4年ごろで百恵ちゃん。
小学校高学年ころの日記を見ると、レコード大賞で百恵ちゃんが大賞を獲れますように!ジュリーとピンクレディーになりませんように!と真剣に書いていて面白い。このときは結局ピンクレディーがとっている(涙)。
人生初の推しが女性アイドルの百恵ちゃんだった私。この後二十歳をすぎてから、女優さんで一人推しができたけれども女子アイドルは百恵ちゃんただ一人。「蒼いとき」が出た時は自分が小6か中1だったから自分には彼女がとても大人に感じていたけれど、20歳でこれだけの内容のものを書けるなんでどれだけ大人だったことか!そして超絶手書きの文字が美しかった。とっくに50歳を過ぎた私よりもずっと大人だった。永遠のアイドル。
80年代 テレビも観るけれど推しはオフコース
百恵ちゃんが引退した80年以降、突然推しがいなくなり、それまで推しへの気持ちでいっぱいだった楽しい、嬉しい、恋しい気持ちにぽっかり穴が開いてしまった。
この頃、近所の年上のお姉さん、お兄さんが持っているレコードを借りて音楽を聴くようになり、テレビでは流れない洋楽を聴いた。
うちにはなかったステレオセットに立派なキャビネットが付いていて、そこに並んでいるアルバム、LP レコードは初めて見る、初めて聴くものばかりで夢中になった。
Earth Wind & Fire, Bee Gees, Eagles, Beatles, ノーランズ...
日本のものがこれに混ざってYMO, フィンガー5、フォーリーブス、アリス、柳ジョージ&レイニーウッドなどなど、自分の親が聴かない音楽が古いものも含めてザックザク。
その中にオフコースのLIVEアルバムがあってこれに夢中になってしまった。
オフコースが2人から5人になってパワーアップした後で、ヒット曲「さよなら」が入ったライブアルバム『LIVE』LoveのOを傍線してLIVE。
トラジャが2023年、デビューコンサートのオープニングに着ていたような上下黒ジャケットを着た小田さんに一目惚れしてしまった。
このアルバムのライナーには小田さん手書きの長い文章があってこの字がまたかっこよくて惚れてしまう。
オフコースはほとんどテレビ出演のないバンドだったことと、あのころのド田舎の中学生だった自分は情報を得る術はなく、音楽雑誌に載った文章があれば何度も何度も読んで覚えてしまうくらいに常に飢餓状態。好きになったはいいけれどラジオから流れる曲を録音したり、お小遣いをためてアルバムを揃えるくらいしか触れられる機会はなかった。NHKでドキュメンタリーが放送されたときは本当に画面に貼りついて涙を流した。あの頃の若者が東京の大学生に憧れるはずだ。
小田さん結婚のニュースが出た時は私は中3で、部活の顧問に職員室に呼ばれ「おい落ち着いて聞け、小田さんが結婚したぞ!」とスポーツ新聞を見せられた。
激重ファンだったことがバレていた。(恥ずかし)
このころは、テレビの音楽番組は70年代と同じく観てはいたけれど、中学生活、部活も始まり、推しの百恵ちゃんの引退もあって、小学生の時ほどには見なくなった。
それでもたまに早く家に帰ったときは、夕方のミュージックトマトで流れるマイケル・ジャクソンやマドンナのMVは新しくて画期的だった。
MJよりもボーイ・ジョージの方が先だったかな。
友達とFM番組雑誌を買ってエアチェック、ここから私の周りでは日本の流行曲と並行して上の世代が聴いていた洋楽とはまだ違う、ポップな洋楽も聴き始める。邦楽と言っていたかな、日本の音楽も今でも活躍しているバンドや歌手がどんどん出てきた時期で今考えると贅沢だったのかも。
高校の時には文化祭では生徒たちで編成するフォーク、ロックだけでなくてパンクバンドもいたり。。。私のいた ”超!” が付く田舎でもそんな感じだった。
90年代 自分事で忙しくしばらく推し不在
高校卒業と同時に上京。ここからは自分事で、学校に就職、多忙な毎日で推しどころではない日々が始まり。。。相変わらずオフコースは好きではあったけれど一枚カーテンを挟んだ向こう側の出来事のような感じで過ごしていた。
東京に出てきたこともあってエンタメの楽しみ方も、テレビよりも映画、お芝居、コンサートなどに変わっていった。海外から大物アーティストライブがたくさんあって、東京ドームでMJを見た時は動いている!だけで感動していたな。
また、結婚してからは相手の趣味に合わせることが増えたのが大きい。
夫は趣味が仕事になったような人で生活のすべてがそれを中心に回っていて、私の生活はそのペースに合わせる日々だった。
30歳を前に一人目、30歳で二人目の子どもが生まれると、更に自分の時間がなくなり推し事なんて頭の中に一片の余地もなく毎日が過ぎていった。
この間に唯一できた推しは女優のシャーロット・ランプリング(Charlotte Rampling)。
あのころはアジアよりはヨーロッパの文化に興味があって、映画もフランス、イタリアの作品を多く見ていた時期だ。
あと、なぜか急に長渕剛にはまりドーム公演にも一人で行ったことがあった。
長男がお腹にいたころ ”おおおぉーじゃぱーん!!” とか歌っていた。
が、出産の後は憑き物が落ちたように自分の中では過去の流行りとなった。
(これは推しとは言えないな。)
2000~2006年 まだまだ遠いTravis Japanへの道!
3人の子どもが生まれてしばらくは自分の周りのこと以外に目が向かず、推しという概念を忘れていたが2003年のある日、スカパーの映画チャンネルでやっていた「Romeo Must Die」を見て主演の俳優の動きと表情に吸い寄せられる。音楽にもハマった。そのころ見る映画も聴く音楽も夫の趣味のものばかりになっていた私。何を見ても聴いても興味が湧かなかったのに、久々の推しができた!
それが香港映画「少林寺」で映画デビューしたあと香港映画で有名になった、Jet Lee/リー・リンチェイ。ここから 彼の香港時代の映画をいろんなレンタルビデオ店を回って借りて全部観た。どこにも置いていないレアな作品や手元に置いておきたいものはヤフオクや香港の通販で手に入れた。
彼にハマった理由の一つに彼が英語を学んでいたことも入ると思う。ハリウッド進出のため1日に8時間以上英語を学ぶ毎日だったと何か記事に出ていて感心した。もちろんスターなので専門のトレーナーがついてのことだろうけれど、彼ほどのスターでも語学を身に着けるため努力しているんだと自分の励みになった。また、そのころ彼のFandom向けHPでチャットルームに本人が入室したことがあってワクワク・ドキドキで、子供たちを寝かしつけた後毎日PCの前に座るのが楽しかった♪
アイドルと話すというよりはリンチェイがファンからの人生相談にのるようなやりとりが多かったかもwww 真面目な人なんだなーとますますファンに。*1
さて、80, 90年代の香港映画を見始めると必ず目に入ってくるのがレスリー・チャンだ。リンチェイの作品を全部見終わるころには、自然とレスリーに夢中に。
こちらは映画ドラマだけでなく歌、コンサートもあってさらに沼が深い。あの頃でもYoutubeで見られるものも少しはあったと思うけれど、ほとんどをDVDやVCRという媒体で手に入れた。先輩ファンのみなさんも優しくて情報共有や市販で手に入らないものもたくさん送っていただいた。(ありがとうございました。)
彼の魅力は知れば知るほど好きになって、その分、切なくなる人でした。
娘は私が夜中にレスリーの映像見ていたことを覚えていて、たまにそのときの話をします。娘の大学の先輩がレスリーに突然ハマって、話が合う人がいて嬉しいと言われたと聞いて私がその先輩とおしゃべりしたくなった。
「大熱」というライヴDVDを貸してあげようかと言ったら、もう持っていると。
傑作です。
香港を知った後、中国の古装ドラマにも興味が湧く。
金庸の武侠小説原作の中国のドラマから中国語に興味が出て勉強し始め、これと並行して台湾の日本のマンガ原作のドラマにハマった。
これが百恵ちゃんから30年ぶりにアイドルの推しができたときで、それが台湾の男性アイドル4人組の飛輪海でした。
ウー・ズン、Wu Chun 演じる台湾版「花ざかりの君たちへ」の男性主人公。
それが2006年で制作時期から見ていたのでその後の日本版花君のイケメンバラダイスの方が遅かったはず。
アジアではこの「花様少年少女·」が大流行して、主演の二人はアジア各地へ番宣に行く人気ぶりでした。番宣の様子もYoutube にアップされるのでそれを見るのもその頃の一番の楽しみだった。
2007~2010年 再びアイドルが推しになる
台湾の飛輪海が参加した音楽祭の映像を見ていたら、そこに出演していた韓国のグループのパフォ―マンズが圧巻で驚いた!!
それはアジアの音楽祭で開催地は釜山。韓国にはこんなグループがいるんだ!!
と、思っていたらそれが東方神起たった!
なんと日本でも活動しているということで、普段日本のテレビ番組を見ておらず、知らなかった自分に”喝”入れてしまった。それでもまだ、すごいグループだなぁ、くらいですんでいたのが、たまたまスカパーのTBSチャンネルで彼ら東方神起のライブ放送を観てしまい、その日に陥落。
アカペラで始まった"Love in the Ice" が流れたのをチラッと見ただけで瞬間堕ちてしまった。
その2年後、3人と2人に分かれてしまうことはもちろんこの時はわからなかったし、ただただ5人が見せるワチャワチャを見て癒される毎日だった。
私はグループから出た方の3人が推しだったため何年かはJYJを見守っていたが、悲しいかな自然に情熱が持てない推し活は心が弾むこともなくなっていき推しのアイドルがいる日々はまた消滅となる。
推し活モットー
自分には推し活を続ける上で大事にしたいことがある。
- 楽しいか
- 執着していないか
- ただの習慣になっていないか
- 見返りを求めていないか
この点は大事だと思う。私は推しへの気持ちがただの執着になっていないか自分を確かめるときがある。執着がアンチになって人生もったいないことになってしまった人たちをたくさん見てきたから。
こんなことを感じたら引きずらないことが大事。推しが変わることは悪ではない。推しへの愛がただの執着になって楽しかった大切な思い出さえも自分にとって不幸なことにならないように。
頭の中から推しが消えている時間が多くなってきたら、ゆっくり考えてみる。
- 無理してしがみつかない
- 自分が鬼にならないように
- 推し事が苦痛にならないように
推しとの楽しかった思い出をドロドロの愛憎に変えてしまってはいけない、と自分に言って聞かせる感じ。これは韓国エンタメでいろいろと見てきて自分が感じたことでとても勉強、教訓になった。
20011,12~2015年
というわけで、私の推しゴトは東方神起が分裂した以降しばらくすると、以前ハマっていた台湾エンタメに戻っていった。2015年あの人に出会うまでは・・・
この頃になると台湾で放送されたものが同時ストリーミングで見ることができたり、そのおかげでまた台湾ドラマを見る毎日に逆戻りとなる。
台湾ドラマ、映画はまだまだ進化の途中で題材もジャンルも増えてきている上に良質な脚本(家)がたくさん出てきて、若いスタッフ、監督の作品も面白いものがたくさんある。
TJへの道ーI へ 続く
*1: 如恵留くん味⁈